まっしーの貯蔵庫

思考のゴミ箱

嫌いなもの

これを書くのはアレかもしれないが、それ以上に俺の精神が危険なので書く。

唐突だが、例えば「わさびが好きな人は高く評価し、わさびが嫌いな人は低く評価する」という文化があったとする。
わさびの好き嫌いは(簡単には)変えることができないため、個人の特有の性質となりうる。
で、わさび好きは高く評価され、注目の的になり、わさび嫌いに嫉妬され、
一方わさび嫌いは低く評価され、わさび嫌い同士による自虐が始まり、わさび好きの慰めに対して激しく反発する。
次第に、わさびの好き嫌いがステータス化する。
結果、わさびの好き嫌いは個人の良し悪しを指し示すパラメータとなってしまう。


しかし、例えば
隣の部屋の人がわさび好きであるかどうかなんて、どうでもいいだろう??
電車で隣にすわってきた男性がわさび好きであるかどうかなんて、どうでもいいだろう??
視界の端にいる食事中の女性がわさび嫌いであるかどうかなんて、どうでもいいだろう??

彼らがわさび好きorわさび嫌いであると判明したところで、自分に何のメリットがある?
特にないだろう?(デメリットもないのだけれど)

そんなもので人を評価、判断するなんて、おぞましくないか???
もっと優先すべき価値基準があるだろう??


んー書いてて意味がわからなくなってしまったのでとっとと結論を書いて寝る。多分眠れないが。


わさびの好き嫌いを、恋人の有無に変えて読み直してほしい。
それが俺の抱いている感情である。

恋人の有無は個人の性質を表すにすぎず、恋人の有無により人間が高くor低く評価されることは控えるべきである。
そして、恋人の有無が個人の良し悪しを指し示すパラメータとなっていることを当然に思う連中は全員滅ぼさないといけない。
厄介なことに、それは恋人無しの人間だけでなく、恋人ありの人間にも存在する。



うーん

地球に直径400kmの隕石をぶつける方が早い。
何が言いたいのかわからなくなってしまった。解散。