まっしーの貯蔵庫

思考のゴミ箱

大学院に対する考え方のメモ

時期が時期なのでアレなのだが、まあそういう時期である。
そういう時期がなんの時期がわかる人は、日本人の少数派であろう。

大学院に行く人間と、そういう人間が身近に存在する人間なんて日本人の10%もいないんだから。いるのか?いないよね?たぶん。


入ってもいない俺がいうのもなんだが、俺は大学院について次のように考えている。

・まず、大学院は認知度が比較的低い。したがって、いくら自分がせっせと研究していようと、そのことは社会には認知されにくい(もちろん認知してくれる人もいる)。働け、などと罵倒されることもある(俺は先日された)。
・それがウザいと考える人は、学部でさっさと就職するか、大学院で社会人の労働以上にストイックに研究するか、のどちらかを選択すべきである。
・大学院でストイックに研究するには、masterの2年のみでは足りない。なぜならM1は勉強、M2前期が就活に飛んでいくからである。M1の勉強は必須であるにしても、M2の就活は取り除いた方がストイックにやれる。
・よって、大学院にどうせいくならDoctorを取る気で行くべきである。と俺は考えている。
・もしmaster2年のみで足らすためには、1日の勉強or研究時間を時計一回りとか取るべきである。しかし、そういう人は何も言わなくてもDoctorに行くだろう。なんせmasterの研究なんて必死にやっても企業でなんて使わない(と言われている)とも言われているので。

次。入試について
・「大学院にどうせいくならDoctorを取る気で行くべきである」という事情を取っ払ってmasterで就職するなら止めない。本人の自由であろう。D進するしないというのは本人が決めるべき事項である。
・内部のみならず外部進学も手段の一つである。それも自由である。
学歴ロンダリングの是非は、知らない。良く語られることはあまりない気はするが、別に悪いことをしているわけでもない。日本最高峰の某大学の某大学院の某専攻なんて内部生と外部生の数が半々なのだぞ。日本最高峰の某大学をdisるつもりなのだろうか。disるのは自由だと思うが。
・内部にしろ外部にしろ、2年しかいない、と決まっている学生を取ることは教授の側からすればやりたくないことであるはずだ。それよりはDoctorを取る気満々の学生を取りたいはずである。
・したがって、masterで終わりにして就職する、と考えている人は外部進学を得意気に考えるべきではない。そういう人は内部にしろ外部にしろ大学院には歓迎されていないと思う。
・個人的には、そういう人はもっと大学院をさめざめと考えて欲しい。熱く考えて欲しくない。要するに、そういう人の出る幕ではない、と言いたいのだ。どうせ研究に没頭しないのならサッと入ってサッと出て行くのがイケメンだと思う(個人の感想です)。
・将来、masterの間で気が変わったら、それは仕方がない。そのような先進ポテンシャルは決められないので。


しかし
・こんなことをごちゃごちゃ考えてるうちは、ハナから研究に没頭する気満々の猛者には勝てない
とも思っている。つらい。

こないだ外部の大学院の見学に行った時に、大学院に対する意識の差を見せつけられたので色々と考えていたことをメモした

下書き放出2

僕はツイッターを辞めた過去を持つが、なんとなく明白な理由がわかってきた気がする。

”フォロワーが無駄に多い一般人”の存在が原因だ。

きゃりーぱみゅぱみゅが4Mくらいのフォロワーを持つのは非常によくわかる。きゃりーぱみゅぱみゅは音楽活動のプロである。

しかし、”フォロワーが無駄に多い一般人”は、顔も名前も明かさず(このご時世安易に明かせないけど)、性別ですら自己申告制で、何かに特化した能力や肩書きがあるわけでもなく(少なくとも自己申告しておらず)、ただ単にオーソドックスに3桁、うまくいけば4,5桁の共感を得ているだけの存在である。

ツイッターをやっていると彼らがまるで真実であるかのように錯覚するが、違う。そうではなくて
「大量の凡人の共感を得ているだけ」
と俺は最近解釈するようになった。
大量の凡人の共感を得たところで、発信者が素人ならば、それは素人並みの意見である。


対照に、大学の教員を見てほしい。顔も年齢も肩書きもバレバレである。そんな中で情報発信をしているのだから、その言動には凡人以上の責任が付随する。結局、俺が信用したいのはそういう発言なのである。



俺は大量の凡人の共感を得ることに快感を得ない。もしそうなら今頃、ドクター行こうかなあなどと悩むわけがない。
むしろ、共感数は少数でもいいから、任意の人間が抗えない何かを作りたい、と思う側の人間である。


なお、僕は完全にツイッターと縁を切ったわけではない。ちょこちょこチェックしているアカウントもある。
いい加減蹴りをつけたい。

下書き放出1

(似たような下書きが複数あったので、ばらまいておこう。どうせ俺の落書き帳だ。)


自分は任意の分野における素人なので、偉いツラをしてられない。
これは現実でもインターネットでも同じ。
天文学?あれは、まだプロ見習いの下っ端。最低でも、パーマネントのポストにでもつかないとプロは名乗れない。


ところが、任意の分野における素人なのにインターネットでは大きなツラをするのがいるらしい。
理解に苦しむ。

twitterで言えばフォロワーが1000を余裕で超える人たち。

何か卓越した分野があって、その信頼によるフォロワーならいい。というかかっこいい。尊敬する。
そうでなければ、中指を立てたくなる。

プロから出る言動が全て熟練もの、とは限らないが
素人から出る言動は全て素人ものである。

(自戒を込めて)

雑記

どういうわけか、今までの人生において、ある一定の程度以上の大きな決断をしなければならないときは、自分の信条に従うのが最も正しい
選択であることが多かった。
他の人のアドバイスに頼った場合は、うまくいかなくて、結局自分の判断を信じればよかったと後悔することもあった。

なんでなのか分からない。

ただ、とりあえず自分の判断が一番うまくいく、というか、納得できる判断であるというケースが俺の人生では圧倒的多数であったので、今後も自分の判断を信じて生きていこうと思う。

しかし、怖いのは、いつから自分の判断が狂い始めるのか、その瞬間に気づけるかどうか、である。

老害というものがあるが、あれは時間の経過が原因で自分の判断が狂っているのに気づかず周囲に迷惑をかけている人間、と俺は解釈しているが、時が経てば自分もその立場になるので、気を抜かずに注視しなければならない。

ザッと考えれば、あと数年は自分の判断が正しいと考えられると信じたい。
だが、10年も経てば若干の齟齬が出始めるだろうし、20年後にはもはや自分の判断が正しいと信じられなくなることもありえるのだろう。


これは俺に限らず老若男女全人類が心しなければならない事項なのだろうが、もしそれが実現していれば世の中もっとハッピーなはずである。
全くもって人類はアホである。お口ミッフィーちゃんにしてさっさと天にお召しになるべきである。(てきとう)

全人類の点は諦めて、せめて自分だけでもなんとかしたい所存である。

20170401メモ

砂川電磁気学、終わらなかった。
あと80ページを残している。
ただし、院試に出るであろう範囲は終わった。問題が解けるかは別として。
残しているのは電磁波の振る舞いであるから、4月上旬にはケリをつけたい(願望)。
たぶん中旬までかかる。が、仕方ない。


量子力学をかじり始めた。ちびちび進める。
猪木川合の本で、怪しいところを復習。ほとんど全部だけど。
一次元のシュレディンガーeq以外はやる、とか多すぎる。特に二冊目。
まあ、これも仕方ない。


流体力学がやりたいのだが、無理。電磁気と量子力学を並行して、さらに熱学と統計力学を残しているのに。
諦めて、前期で二つとるゼミの一方でやらせてもらうことにする。
理想では、「場の古典論」「流体力学」のゼミを並行しつつ授業をこなして基礎物理の復習を進めるのが前期の前半。
前期の後半は院試の問題をやろう。
過去問は7,8月。


ぼちぼち、大学院入試の黄色い問題集を進める。
1は最新版を買った。2は学生部屋にあった二冊のうち一冊をパクって借りて進める。しばらく1ばかりになるが。


あとやること
・ついに学生部屋でディスプレイとキーボードが使えるようになった。
肝心のパソコン本体がないけど。
というわけで、本体を買う。中古でもいい。

・OSだが、Macは高いのでlinuxを予定。おそらくubuntuを使うことになりそう。
まだこの辺の話がよくわからないので、linuxubuntuの本を買って読む。

東日本大震災6年目

(こんなのを書くタチじゃないのだが、記録する)

僕は自分の部屋にテレビを置いていない。
一人暮らしを始めた当初は置いていたが、リモコンを見失って見るのを諦めるくらいにはテレビを見る頻度が少なかったので、数ヶ月で手放してしまった。

それで、数年間テレビにほとんど触れずに生活すると、どうなったかというと、
6年前の震災の津波の映像にショックを受けた。


まず、僕は東北の人間である。
6年前は、岩手、宮城、福島ではない東北の県に住んでいた。
今は、岩手、宮城、福島のどれかに住んでいる。

で、自分のこと以外の興味がテキトーな僕は、恐縮ながら、震災の被害の様子を忘れていた。
どんな揺れが襲ったのか、どんな津波が襲ったのか、どんな火災があったのか、などなどの記憶が風化していたのである。
(当時、停電のために最初に入ってきた情報量が少なかった、卒業シーズンだったというのも関係しているかも)

震災の被害を思い出す機会がなかったかというと、そうではない。
5年前、部活の遠征で気仙沼に行った。
当時、整備はまだ追いついていなかった気がする。
帰り際に街中を車で回ったのだが、青い案内標識の下の部分が汚れているのと、一階部分が切り取られているかのように空っぽになっている建物を見た。

1年前、津波の被害のあった、気仙沼とは別の地区を自転車で回ってきた。
きっかけはない。その地区が自分の家から自転車でなんとかいけるところにあったから、というきっかけくらいしかなかった。

どうだったかというと、
・被害のあった地域はそれなりに整備されていた。
家屋などの瓦礫等は全くない。「稲刈りした後の田んぼかな?」と誤解するくらいには何もなかった。

・ただし、道路の整備とかの工事は続いている。完全に整備された、というわけではない。

・震災後に建てたのであろう新しい住宅が数軒、津波にのまれて放置されている小屋らしき建物も数軒あった。

阪神淡路大震災の被災地からの義援金で建てられた公民館があった。
そこにはその感謝を記す記念碑と、津波の高さが記されていた。
津波の高さは自分の身長2つぶんくらい。これは死ぬわ…という感想を抱いた。

結局、「この地区は今後30年でどう利用されるんだろうか」という、答えが全く出ない問いに悶々としながら帰った。


僕がやってきた、被災地に関わる行動はこれくらいである。
北東北を青春18きっぷで一周する、という旅はしたけど、肝心の岩手県については残念ながら電車を楽しむ以外のことをしなかったのでノーカンとする。

昨日までの3日間、たまたま実家に帰省していた。
実家にはテレビがある。
昨日の朝、ある番組が、震災から一週間程度の間に何があったのかをハイライトしていた。
僕は、このコーナーで放送されている映像を見て、久しぶりに背筋が凍るような感覚を覚えたのである。

しかし、どうもこういう「被害状況を垂れ流すだけの番組」は嫌われるらしい。※1
そんなものよりも「東北地方の観光地とか名産品を紹介する番組を作れ」「復興がどれだけ進んでいるのかを報告しろ」という声の方が少なくともネット上では、比較的大きいように思える。


で、人間を性悪説の観点で見る僕はまず、観光の点では実際の人間の行動に反映されているのだろうか、と思い、観光庁のデータを引っ張ってきた。

https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/ks/toukei/toukei/honpen/1.touhoku-kankou.pdf:image=https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/ks/toukei/toukei/honpen/1.touhoku-kankou.pdf

2,3ページ目にH22~H25宿泊した観光客数のデータがある。
これを見てくれるとわかるのだが、東北6県とも微妙である。ちゃんと震災前の数字に持ち直した感はあるものの、宿泊した観光客が震災前より増えているかというと、有意差はなさそうである(ちゃんと調べるには、もっと長い時間スケールのデータが必要だと思う。でも、あっても僕は調べない。めんどいので)。

したがって、どうも「観光による経済効果が復興に結びついているか?」というとYesとは大声では(僕は)言えない。
それくらい、東北への観光は増えていない(減ってもいない?)、と言わざるを得なさそうだ。

僕は、復興支援の気持ちを込めて東北観光をする、というのは大いによろしいことだろうと思っている。プラス100くらいだ。
また、そのような気持ちがなくても(忘れていても)東北観光をする、と言うのも悪くはないはずだ。悪いことが起きているわけではない。マイナス成分が0、である。
そのような気持ちがなくて、東北観光に来ない、というのは、つまり何も起こらない、ということだ。プラマイ0。

復興支援の気持ちはある。マスコミに文句は言う。観光には来ない。
これはマイナス100と言わざるを得ない。やらない善ってやつなのかな。
誰だそんな不届き者は。
僕が被災者を代弁するのも変であるのを承知で言うが、被災者は、そういった「やらない善」を抱えた人間を嫌悪する。

もちろん、「やる悪」を抱えた人間も嫌悪する。
「やる偽善」を抱えた人間は…知らない。人によりけりだろう。


次。復興がどれだけ進んでいるのかの報告だが、放送されていた気がするんだけどな…
僕の記憶が正しければ、
津波の被害のあった地域の、道路、がれき処理などの工事の色が強い整備はだいぶ進んでいる。
・防波堤の建設は、行政と現地の人で意見が合わず、あまり進んでいない。
原発事故の避難区域の一部が4/1に解除される。
廃炉作業は進んでいるが、まだ道のりは長い。
と言っていたはずである。
あと、宮城県南三陸町で、仮設じゃないrealな商店街が完成した。
テレビの映像を見る限り、俺の地元の商店街より盛り上がっている。

確かに、東北の内陸部とか関東地方沿岸部の津波被害の地域とか液状化の被害を受けた地域の放送は少ない、というか0であると思う。これはテレビ局の反省すべき点かもしれない。(一応、当時の液状化被害の様子はハイライトで放送している。それから、整備途中で放送することが何にもなければ放送しないだろうが…)
しかし、もっとも被害の大きかった地域の復興状況の放送はしているのだ。
仮に、「復興がどれだけ進んでいるのかを報告しろ」という要求が、俺が雑にやった上の列挙で納得されるのであれば、
常日頃からテレビを見ている人の要求が、常日頃からテレビを見ていない人によりテレビから答えを引っ張って来られる、という状況の愚かさを懺悔すべきである。


まとめ。
震災6年目に自分が思ったのは

・東北の復興支援の意味で観光地を回るなどの援助は、確かに必要だと思う。
・ただし、そのためには、被災地にはどんな惨状があったのかを記憶に留めておかないと、復興支援を伴わないただの観光客になる。だが、この段階では悪いことが起きているわけではない。
・「東北の観光地とか名産品を紹介する番組を作れ」などと張り上げる声が比較的大きい一方で、観光客数は大きな変動なし。観光が経済効果に結びつく、という効果は見られなさそう。
すなわち、マスコミに文句を言うだけ言って、自分は行動しない有言不実行な不届き者がいるのだろう。
・テレビを持っているのにちゃんと見ていない宝の持ち腐れがいる???そんなザコみたいな使い方をするのなら、さっさと売ってデリヘルでも呼べよ。

ということである。


震災を忘れられるのはある程度は仕方ないと思っている。人間は忘れる生き物だ。
というか、いずれは震災を知らない世代がやってくる。第二次世界大戦を経験した現代人がほとんどいないのと同じように。
震災の記憶が風化している我々(少なくとも自分)と、震災を知らない世代に震災を覚えてもらうにはどうするか。
時々思い出す、覚えさせるしかないのだろう。


そういう意味で、テレビ局。1年に1回とかでいいから震災のハイライトを流してください。※1
可能なら、東北の観光をただ紹介するだけじゃなくて、観光を直接促す番組があるといいなあ…あんまり来られても人口過剰で困るけど。



※1 なんでだろう。毎日津波の映像でも見せられてるのかな。テレビないからわからない。
御涙頂戴を意図している放送は確かによくないが、被害状況の現実を知ることとは別の話であり、後者は必要だと思う。

(また追記とか編集とかするかも)

前の学期のゼミの担当教官に言われた、

研究は未知の現象に対して基礎物理の知識を総動員して解明する試みです。
研究をやる以上、「電磁気がわかりません」だの「熱力学が苦手です」だのとは言ってられないわけです。

という言葉が実に強いと感じている。



共感してくれる大学生は5人いればいいや。